シュトゥルツォヴィ・サディ

墓地を教会とは反対の北へ抜けると街が一望できる果樹園だった公園シュトゥルツォヴィ・サディがあり、1678年に彫刻家ベンドルが作り、ヴァーツラフ広場に1921年まで、今ある聖ヴァーツラフの騎馬像以前に置かれていた、小振りの初代騎馬像がここにある。その騎馬像の先の城壁からの北の眺めは実にすばらしく、しかもここにあったヴィシェフラド城に、プラハ城と同様、あるいはそれ以上の愛着を持っていたであろうカレル四世のプラハへの想いも、伝わってくる。
背後の南方30キロ程のところを流れるヴルタヴァ川の支流ベロウンカの山奥に、カレルシュタインというお城がある。カレル四世が別荘兼ボヘミアの宝物を収蔵する場所として9年かけて築城した古城で、チェコに600はあると言われるお城や館のなかでも一番姿の美しい建築物とたたえられてきたが、その古城にカレル四世謁見の間というのがほぼ当時のまま残されていて、星空をアレンジした天井をいただく部屋には、カレル四世が謁見の際に着席した玉座が、南側だけにある二つの窓を背に置かれている。この玉座に座るとボヘミア王カレル四世に相対する人々には窓からの光が逆光になり、王様の顔の表情が読み取れないが、謁見する王様には窓からの光が照明の役目を果たし、居並ぶ人々の顔の皺の動きまでつぶさに見て取ることができる。そしてこのヴィシェフラドは、まさにその謁見の間の玉座のように、旧市街のあるプラハ一区の南、自ら都市計画でひらいた新市街にあたる現プラハ二区の南、しかも街の中心・旧市庁舎のある旧市街広場や、新市街市庁舎のある南北に延びたカレル広場の真南にある。まるで市民の喜びや悲しみや憂いを陰ながら、じっと耳を澄まして見つめているかのようではないか。当時最強の騎士と謡われ怖れられたヤン・ルクセンブルクを父に、ボヘミア王族プシェミスル家最後の王女エリシカを母に生まれたカレル四世は、神聖ローマ帝国皇帝になるや、母のふるさとプラハを帝国の首都に定め、帝都に相応しい改革に着手する。聖ヴィート大聖堂を建て、カレル大学をひらき、カレル橋をかけ、密集した街を新市街として拡張し、飢える者たちには壁づくりの仕事を与え、西と東の知恵と宗教と文化の十字路として修道院エマウズを設置する。さらには、東へ流れるドナウ川と北へ流れるヴルタヴァ川を、運河でつなぎ、南のアドリア海のベネチア商業圏・黒海沿岸の産業圏と、北のハンザ同盟商業圏を一つにする構想も、ここ、まさに街の玉座にあたるこのヴィシェフラドから街を見渡しながら思い描いたりしたのかも知れない。そのカレル四世への敬愛の念は今なお人々の記憶の底に流れているかのように、ベルリンの壁崩壊後十年して各メディアをつかって行われたチェコで一番の重要人物を選ぶ世論調査では、三位になったチェコ共和国初代大統領ハヴェル、二位になった初代チェコスロヴァキア共和国大統領マサリクを押さえ、カレル四世が一位になる。ちなみにチェコ共和国の紙幣はオタカル一世の20コルンとアネシュカの50コルンがコインに置き換わり、現在100コルンのカレル四世から、5000コルンのマサリクまでの6種類が出回っている。
 面影に 耳目毳つ 偲び草

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