ストラホフ修道院

900年初頭、それまで東方教会寄りであったボヘミアの地を、プラハ城を築城したボジヴォイ公の孫・ヴァーツラフが弟に暗殺されるという犠牲を払いながら敷いた西のローマ・カトリック教会への路線変更がほぼ定着した1140年、プラハ城主ヴラジスラフ公とオロモウツの司教インドジーフ・ズディークが修道院を設置し、その地形がエルサレムの丘に似ていること、ライン川沿いの街ステインフェルドからポーランドのクラコフへ至る街道筋に当たることから、当時西の教会圏で問題になっていた叙任権、縁故主義、金銭による贖罪等に端を発し、北フランスの片田舎でノルベルトによって1120年に設立され、活動を始めていたプレモントレ会修道僧が、ここストラホフ修道院で暮らし始める。修道院は引き継きロマネスク様式で建設され、1256年にはボヘミア王オタカル二世の賓客としてプラハを訪れたケルン大司教や選帝侯コンラッド公が逗留するまでにもなったが、二年後に蝋燭の火の不始末による火事で焼失し、1420年にはフス教徒の襲撃により図書館、書庫、礼服等、教会諸共破壊され灰燼に帰してしまう。17世紀初めの三十年戦争のさなかには、プラハ城を占拠したプロテスタント側援軍のスウェーデン軍の兵舎にもなり、1740年のマリア・テレジア時代の黎明期にはフランス・ババリア同盟軍の砲撃にもさらされる。第二次大戦後の旧体制時代には、修道院は没収され、逮捕投獄、徴兵、強制労働などの迫害を受けたが、ベルリンの壁崩壊後はもとの住まいとしての修道院に戻り、現在21人の修道僧が生活している。このようにまるで競馬の障害レースのようなチェコの歴史をくぐり抜けて来た修道院だが、東側のアーチを出ると、お城と街を一望できる天国と名付けられた見晴しのよい小さな葡萄園もあり、自活のための糧として耕されていた元果樹園が眼下の丘の斜面にひろがる。敷地内には皇帝ルドルフ二世がペスト終焉の感謝を込めて奉納したルネサンス期の聖ロフ教会、訪れたモーツアルトが妙なる響きに霊感を得て即興演奏をしたオルガンのあるバロックの聖母被昇天教会、その教会脇には入場料を払って見学できる、3000冊の写本と2000冊余りの初期木版活版本を含む13万冊の蔵書を誇る図書館がある。中の展示は天球儀、地球儀が並ぶ宗教関係の図書室・神学の間や、哲学の間と名付けられたフランス革命直前の啓蒙期を髣髴させる旧約聖書からギリシャの神話、哲学者、アレキサンダーからディドロまで登場する人間の知恵の百科全書ともいえる素晴らしい天井画の図書室があり、歴代の修道院長が蒐集して来た珍しい品々や蔵書の一部も見学できる、博物館風図書館になっている。その向い側や修道院周辺には、眺めのいいガーデン・レストラン、自家製ビールが飲めるビアホールもあり、修道院横手の庭の奥には地獄を意味するペクロと云う、昔の修道院のワイン・ケラーだったところもある。
 夜浸芯 麦酒葡萄酒 舌鼓

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