聖ミクラーシュ大寺院

歪んだ真珠という意味のバロックは、卵をころがすとどこへ転がっていくのか分からない、そのような躍動感を音楽、絵画、彫刻、建築に与える芸術運動で、建築の場合は楕円を基本イメージに構築される。その目くるめく絶妙かつ壮大な達成が、この城下小地区広場にゴシック時代にあった聖ミクラーシュク教会の敷地内に、新たに1703年、イエズス会と三十年戦争の立役者将軍アルベルト・ヴァルトシュタインの要請のもとに建てられた、この聖ミクラーシュ大寺院だ。建築に当たったのはバロック時代の申し子とも云える建築家クリストフ・ディーツェンスホッファーで、身廊の設計と前廊の40mの高さへねじれあがるムーヴメント、壮麗なドームと巨大なインテリアは当時のヨーロッパで初めて試みられたものである。残念なことに彼は完成中場で死去したため、壮麗なドームの完成は旧市街広場の聖ミクラーシュ教会も手掛けた息子のキリアン・イグナーツ・ディーツェンスホッファーに引き継がれ、その後さらにアンセルモ・ルラゴの手により最後の尖塔が建てられ、1756年に完成する。身廊を覆う雄大な天井フレスコ画・聖ミクラーシュの栄光を描いた画家はヤン・クラッカー、聖霊降誕祭の天井画と合わせるとヨーローパで最大の1500平方メートルになる。画家クラッカーはこの天井画製作中、描いてる自分の姿を見ることを禁じたが、興味を抱いた一人のイエズス会修道僧がこっそり柱の陰に隠れて見ているのを見つけた。画家は密かにその修道僧の様子を柱ごと描き込んでしまう。そのため初めは賞賛の声で埋め尽くされていた完成披露式典は、出席者達が天井に描かれた同僚の姿を見つけるにつけ、やがて盛大な笑いの渦に包まれたという。フランティシェク・パルコのフレスコ画やイグナーツ・プラッツァーの後期バロックの彫刻群やカレル・シュクレタのキリスト磔刑画もある豪奢な大寺院内部の空間には圧倒されるが、巨大な聖人達の彫刻が木製で内装の大理石が多彩な砂粒を捏ねあわせた模造パネルであることを知ると、黄金の手と称されるチェコの技術力にもまた驚かされる。この大寺院は1773年には後援者だったイエズス会の手を離れ、城下小地区マラー・ストラナの主教区教会となり、1798年2月には前年12月に亡くなったモーツアルトの世界最初の追悼式が、妻コンスタンツェと息子達出席のもと、歌劇ドンジョバンニのプラハ初演の際に滞在した別荘ベルトラムカの所有者でソプラノ歌手・ドゥフェック夫人が歌うアリアと彼のレクイエムで執り行われ、入りきれなかった市民が十重二十重に大寺院を取り囲み、モーツァルトの死を悼んだと云われる。生まれた町だったザルツブルグ、糧を得るための町だったウィーン。もしもっと長く生きていたならば、プラハはモーツァルトにとって、未来の街になっていたかもしれない。
 稀有なれや 未来へ奏でる レクイエム

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